本のソムリエ

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【書評】ブラックジャック創作秘話 vol.5

今回取り上げるのは、この漫画です。

kindleでも出ています。 

この本の見所を、勝手に一言で表現すると… 

  1. 手塚治虫を「天才」の二文字で表現してはならない。
    • 線が書けないと言ってはバンビをトレースし、アシスタントの作品があれば目を通して批評し(自分の足元にも及んでいないことを安心し)、あくまで手塚治虫は努力する人だ。
    • 努力する人間は、努力しない人間を許せない。死に逝く直前でも、有り余る才能を発揮できずにイライラが募り、怒号を発してしまうほど。
    • 一生懸命努力して階段をのぼり、他の人と差が付いたら、のぼれなかった人間は「才能のお陰」「天才だ」と口を揃えて言う。
  2. 面白い仕事を断ってはならない。
    • 他人に取られるからだ。
    • できるかできないか、ではない。自分がやるか他人にやられるか、だ。

 

 

回を重ねるにつれて、手塚治虫そのものの話ではなく彼を取り巻く仕事の話にシフトしていっており、「単なる漫画制作の秘話が多いな」と思っていたら今巻で最終回だそうですね。さすがにネタ切れだったのでしょうか。

自らの命を「大根おろし」で擦り減らしながら、この世に量も多く質も高い作品を残し続けた手塚治虫。その彼の心境を、原作者の宮崎克氏はあとがきにて次のように述べています。

「人は二度死ぬ。一度目は肉体が滅びた時。二度目は、その存在が人々から忘れ去られた時」

漫画の神様・手塚治虫が恐れていたのは、肉体の滅びる一度目の死ではなく、魂が滅びるこの「二度目の死」だったようです。

 確かに漫画家は作品を世の中に発表してこそ、「知って」もらえる存在であり、その場が無くなれば「知らない」存在になってしまう。

そもそも、「世界」とはその人間の見えている範囲の領域の集合体でしかなく、もし手塚治虫が面白く無い作品を出し続ければ、やがては世間から忘れ去られ、世界から消え去ってしまう。

その恐怖に向き合いながら、だからこそ手塚治虫は自らの命を切り売りしながら、作品を世の中に提供し続けたわけです。

 

この漫画を読んでいて、改めて「プロフェッショナル」とは何かについて考えさせられます。wikipediaでは以下のように紹介されていますが、私はここに「高い職業倫理」と付け加えるべきだ、と思うのです。

プロフェッショナル - Wikipedia

専門家であること、その分野で生計を立てていること、高い自律心を保つこと、それぞれに大切だと思います。それに加えて、職業倫理—すなわち漫画家として守るべき道を手塚治虫はとことん追求していたと思うのです。

例えば、アシスタントが過労で倒れたら「健康管理がきちんとできない人がいましたね」と評し、遅刻する人に向けて「遅刻するような厳しい量じゃないでしょう」と切って捨てる。全てはベストコンディションで製作に向かうという自らの心構えのような意識を私は感じました。

何より、作中に登場する手塚治虫の次のセリフが、全てを物語っていると私は思っています。

ものを創る人がパーフェクトを目指さなくてどうするんですか!? 

 漫画家は、いや創る人は、妥協せず、100%を目指して、全てを注ぎ込まなければならない。恐らくそれが手塚治虫の流儀であり、それができない人を「なぜ、全力で取り組めないのか?」とどこか冷めた目で見ていたのではないでしょうか。

一方で、手塚治虫以外の人間は、「なぜ、そこまでして取り組めるのか?」と同じくどこか冷めた目で見ていたのではないでしょうか。

 

巻末は、1992年5月、手塚プロダクション漫画部が解散したことを伝える絵でこの漫画が終わったことを知らせています。

宮崎駿にしてもそうですが、高い職業倫理を持つプロフェッショナルは、自分ができるがゆえに、できない人を理解できないのではないでしょうか。できない人という括りにしてしまい、なぜできないのかを考えられなかったのではないでしょうか。

確かに手塚治虫が忘れ去られることはありません。手塚治虫が生み出したカット割りも表現の仕方も無くなることはありません。魂自体も誰かが受け継いでいるでしょう。

しかし、「手塚治虫の意志を継ぐもの」がいない(少なくとも私は知らない)、ということが、結局は彼自身を「天才」という括りにしてしまっているのかもしれません。いつの時代も、天才は理解できないものとして扱われますから。

 

そう考えると、いつだって「天才」と呼ばれる人は孤独な存在です。