本のソムリエ

あなたに合う本、ここにあります。

【書評】申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。

今回取り上げるのは、この本です。

kindleでも出ています。 

申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。

申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。

 
申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。

申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。

 

 

この本の見所を、勝手に一言で表現すると… 

  1. コンサルタントと言っても十人十色、何より使い方を間違えてはならない。
    • 例えばジムのパーソナルトレーナーのような存在は、持っていない視点をアドバイスしてくれるから非常に有り難いし、役立つ。
    • しかし、パーソナルトレーナーがいるから痩せるのでは無い。自らが痩せる努力をしなければならない。なぜなら、痩せるのは自分だからだ。
    • 経営コンサルティングも同様である。やるのは自分であり、自社である。
  2. ツールや手法、数値目標はあくまで方法論。それ自体が解決してくれるわけではない。
    • 方法が目的になってはならない。
    • 現状と手法が一致しない場合、取るべきは現実である。人間をそもそも4つに分類したり、何かの型に嵌め込むのは限界がある。
    • ましてや人間を現在の実績だけで数値化しても、人間そのものの評価には結び付く筈がない。
  3. マネジメントは「人」がなすべきものであり、「人との調和」によって生まれる。
    • 20世紀型の「科学的管理法」や「XY理論」はもはや無意味だ。(ドラッカーの言うところの知識労働者には当て嵌まらない)
    • 特別な技術はいらない。人を愛し、成長を願うだけで十分である。

 

 

この本は、元コンサルだったカレン氏の「コンサルティング暴露史」であり、同時に経営の本質を浮かび上がらせる名著だと私は思います。

全体の8割に所謂コンサル業界で飛び交う単語の無意味さや弊害を取り上げ、残りの2割を実際の経営で必要な「人間力」を取り上げています。

 

DNA南場社長の本の中で、女史がコンサルティングファーム卒業後に会った元クライアントに「土下座したい」という表現があって、なんて謙虚なと思っていたのですが、この本を読んで合点がいきました。

大学を卒業したてで、仕事のデキよりも、そもそも社会人として何の下積みも無い人間が会社の趨勢を決めるような立場となって発言していたら、それはそれは土下座したくもなるでしょう。

コンサルタントも人間です。アイドルと違って屁もこくし、ウンコもします。間違いも犯します。それなのに、コンサル会社の提案を真に受ける人がいかに多いか。

どの書店を巡っても「コンサル」とタイトルの付く著者本、ビジネス本が多いから、自然と「コンサル=凄いんだ」とでも刷り込まれているのでしょうか。

 

この本で訴えられていることの根底にあるのは、「自分で考える力のアウトソースの弊害」だと私は思います。

当然、自分で考えるには限界があります。3人集まって文殊の知恵を使ってもイノベーションが生まれないこともあります。自分の見聞きしたことの無い世界を想像するには限界があります。

かつて、ウィトゲンシュタインは言いました。

Whereof we cannot speak, thereof we must be silent.

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。 

 知らないことを語ることほど無意味はありません。したがって、3人集まろうが100人集まろうが、知らないものについて語っても何も生まれません。だからこそ、そこにコンサルティングの1つの意味が生まれるのでしょう。

しかし、コンサルタントの発言は1つの意見です。世界を知る者から知らない者への言葉でしかありません。

それなのに発言者はあたかもそれを知っていることが凄いことであるかのように小難しい言葉を使って相手への理解を促そうとせず、傾聴者はそれに疑問を持たずに凄いんだで終わらせてそのまま受け入れてしまう。

本来なら、本当なのか?正しいのか?合致するのか?と考えるべきなのに、「その世界を知っている人間が言っているのだから正しい筈だ」という思考アウトソースをしてしまう。

 

何も、コンサルティング業界に限ったことでは無いと思います。

お医者さんが言っていたから。広告代理店が言っていたから。タレントの○○さんが言っていたから。テレビで取り上げていたから。ネットで有名な○○さんが褒めていたから。

自分が行動する理由の根拠を他人のせいにして、自分に合っているかどうか考えない。ブスがローラに憧れて目を大きく見せようとしても、ブスはブスなんです。どうせなら愛されるブスを目指して森三中の愛され力を学んだ方がよっぽどマシなのに。

確かに、誰かに委ねたほうが「楽」ではあります。その方が良いこともあります。しかし「委ねる」と「思考を放棄する」は違います。自分も考える、という一点において。

 

考えることを放棄した先に待っているのは、視野の搾取だと私は思っています。物事の一面だけを取り上げて、良いだ悪いだと騒ぎ立てるようになります。世界はいつだって三次元なのに、目の前に現れた丸だけを見て「丸い!」と言う。本当は円錐かもしれません。

長いこの世界の歴史において、いつだって視野の狭い人間によって暴力による血塗られた時間が作られます。

だからこそ、私は訴えたい。考えろ、と。